レジェンダリー

レジェンダリー

光岡自動車の歴史を語る上で
最もセンセーショナルだったあのクルマたちを
当時の秘話とともに振り返る。
今なお現役で活躍するクルマがある中
ここでは当時の開発秘話や挑戦の記録をご紹介します。

オロチ
本能の誘惑。煩悩の悦楽。

2001年10月第35回東京モーターショーでコンセプトカーとして発表されたオロチ。
その名の通り「八岐大蛇」から命名されたうごめくような肢体は、機能的なパフォーマンスを超越したある種の生命体のようでした。

開発秘話

なぜオロチは生まれたのか

ある日、創業者の光岡進社長(現:会長)が、富山市にある本社の二階から外を眺めていた時、1台のイタリアンスーパーカーが走り去ってゆきました。その時、当時の副社長(光岡進現会長夫人)が「社長、あなたはクラシックカーばかり作っているけど、ああいうカッコイイ車作れないの?」とつぶやきました。売り言葉に買い言葉で「現代の車をクラシックカーにすることより、スーパーカーを作る方が簡単だ!」と言い放った光岡進社長(現:会長)。豪語した以上、後に引けなくなったという、実に「光岡らしい」ヒューマニティな経緯で、スーパーカー開発の号令がかかったのです。

オロチのデザイン

オロチのデザインが生まれるまで、途方もない数のスケッチを描き、その姿を追い求めました。しかし、描いても、描いても世の中にある「スーパーカー像」から抜け出せず、一旦全てを捨てたときに、はっと気づきました。世界の名だたるスーパーカーは「カッコよくて、足が速く、非の打ち所がない、まさにエリート」だと。私たち光岡自動車は決してエリートではないけれど、誰にも負けない夢や情熱だけは持っている。それはある意味ひがみでもあり、反骨心でもあった。だからこそ、そのパワーがあのデザインを生み出した原動力になったのです。

クルマに魂を込めた
「入魂の儀」

それはあまり知られていない事実。オロチ正式発表の2ヶ月前の2006年夏の終わり。地元メディアや関係者だけを招いた、ある儀式が行われた。完成した試作車3台に魂を込める「オロチ入魂の儀」。クルマは機械であるが、そこへ魂を宿そうというもの。霊峰立山を神の山として奉斎する雄山神社、小雨が降りしきる中、やがて蝉たちが泣き止んだ夏の夕闇に松明をたいて、社員たちがプロジェクトの安全と成功を祈願して神に祈りを捧げました。その時のオロチはおどろおどろしい生命感をまとい、鬱蒼とした深い木々の中に佇む「八岐大蛇」そのもの。私たち全員がこれから起きようとしている未体験の現実に身の引き絞まる思いでした。

コンセプトカーから
生産車までのみちのり

2001年の東京モーターショーにコンセプトカーを出展してから、5年もの歳月を経て、発売までこぎつけたオロチ。実はその間、幾度かの開発中止があった。理由は、あまりにも開発費がかかること、その途方もない作業量に挫折しかけたことです。当時オロチの開発に携わっていた開発人員は10名程度。他の開発案件もこなしながら型式認定車を開発することは相当な負担でした。しかし、苦しい時ほど勇気付けてくれたのは当時の光岡進社長(現:会長)でした。「夢を描いたら最後の最後まで思いを貫け」そう言って、私たち社員を激励してくれました。今考えれば、この言葉はいくつもの挫折から夢を掴み取ってきた光岡進社長(現:会長)が、オロチプロジェクトに対するご自身へのエールだったのかもしれません。

「オールジャパン」の
スーパーカー

メイド・イン・ジャパンは、世界で認められる信頼性や品質とされますが、オロチにおいては、さらに「オールジャパン」のスーパーカーであると言っても過言ではありません。私たちの企業規模からいって、エンジン、ミッション、ブレーキ、それらを制御するコンピュータなどを開発・製造することは不可能です。そこへ手を差し伸べてくれたのが大手自動車メーカー各社でした。あるメーカーは重要保安部品を、あるメーカーはエンジンやコンピュータを、あるメーカーは研究施設などを提供してくれました。皆様が口々に言うのは「我々大手ではできない面白そうなチャレンジだ。夢を買うつもりで協力しましょう。」というものでした。夢に共感し集い、共に旅した「勇者」たち。日本人の持つ、素晴らしい助け合いの精神、ニッポンのモノづくりの底力を痛感した瞬間でした。

ある部品に集約された
オロチの象徴

オロチは平面や直線は一切使わず、すべてにおいて有機的なフォルムで構成されています。中でも最もこだわって、オロチを大蛇たらしめる象徴的な部分は「目」。つまり、ヘッドライトです。「目は口ほどにものをいう」と言われる通り、その鋭い眼光は蛇そのもの。ライト中央に走る一本の筋は哺乳類にはない爬虫類独特の怖さを持ち、その奥に宿る眼球はまるで獲物を見据える生き物のように見せています。また、今では一般的な表現となった、まぶたのような造形や彫りの深い「アイライン」的な造形によって、より有機的な視線を表現したかったのです。意思を持ったヘッドランプはオロチを象徴する最も思いを込めた部品なのです。

オロチ終焉。そして未来へ。

2014年、最終エディションとして「ファイナルオロチ」を5台限定発売し、その歴史に幕を閉じました。オロチを応援して下さったすべての皆様には筆舌に尽くしがたい感謝しかありません。オロチは様々な理由で終焉を迎えることになりましたが、私たち光岡自動車は夢を追い、実現してゆく企業です。ひとつの終わりは次への始まり。いつになるかは私たちにもわかりませんが、次の大いなる夢に向かって諦めず、挑戦し続けます。

ゼロワン
無から有へ、0から1へ。

平成6年1月、それまでのコーチビルダーから脱却し、昭和37年に誕生した本田技研工業以来、実に32年ぶりに日本で10番目の乗用自動車製造メーカーと認定された記念すべきフルオリジナルカー「ゼロワン」。
それはまさに無から有を生み出し、0から1への大きな一歩でした。

開発秘話

目指したもの

世界の一流メーカーでも、最初から大きな自動車メーカーだったわけではない。私たちでも、自動車メーカーにはなれるかもしれない。やってみないとわからない。そんな純粋な思いで、まっすぐ諦めずに進み続け、初めて「ミツオカ」と言う車名のクルマを作ることが出来ました。目指したものは「私たちらしさ」。今に続くチャレンジ精神はこうして受け継がれていきました。

「では、自動車メーカーとは
何ですか?」

平成2年夏、バブル崩壊の約1年前。光岡進は運輸省(現:国土交通省)にいた。「今度自社で設計したフレームからクルマを作りたいが、どのような検査を受ければいいですか?」霞が関の合同庁舎3階の小さな会議室で、あまりに突拍子もない質問をされた若い官僚は、決めゼリフのように呆れた口調で「光岡さん、それは自動車メーカーじゃないとできませんよ」と言い放った。大手が自動車メーカーで、私たちが自動車メーカーではない根拠は何か。株式の数なのか、売上なのか?
「では、自動車メーカーとは何ですか?」真っ向から食い下がった光岡進のストレートな問いに担当官僚は面食らったという。

正面突破。
それが光岡イズムの核。

ゼロワンの開発は進んでいたが、依然として運輸省(現:国土交通省)が首を縦に振らない。当時の開発メンバーは回想する。「裏技は絶対使わない光岡進社長(現:会長)だったから、どんな難題でも正面突破しかない。結局、その真正直なやりとりが運輸省(現:国土交通省)からの信頼を少しずつ得る結果となっていった。」事実、体面上厳しい交渉が終われば「光岡さん、個人的にはあなたの言い分を理解できる」という官僚もいたという。
とはいえ、自動車の型式指定を取ってメーカーの認定を取得するのは容易ではない。そんな折、「光岡さん、とりあえず今回は組立車で車検を通しませんか?」と、意外にも「他の選択肢」を切り出したのは他ならぬ運輸省(現:国土交通省)からだった。

幻のゼロワン、
99台の組立車。

組立車とは言え、型式指定や新型認定に相当するカテゴリーでの前例がほとんどなかったのだが、平成4年10月には試験をクリアすることができた。試験車両3台のうち、2台をクラッシュテストで潰し、残った1台を富山の工場へ持ち帰ったとき、社員が揃って拍手で迎えてくれたのは、忘れられない瞬間だった。こうして組立車というカテゴリーで99台のみ生産・販売された言わば「幻のゼロワン」は、今でもファンの間では特別な価値を保っている。その年、光岡進社長(現:会長)から知人や社員へ送られた年賀状には「ミツオカ」の名を冠した車検証の写真が年賀状として送られた逸話がある。

「ミツオカオリジナル」へ挑んだ技術者たちの想い。

組立車からさかのぼること数ヶ月前の話。ゼロワンの開発には2名の職人と若い数名の社員でスタートしたが、皆、知識としてクルマの構造や理屈は理解していても、オリジナルカーを一から作った経験などあるわけがない。お手本とする車両を分解・研究し、それに似せてわずか1ヶ月足らずでフレームだけの試作車を製作したが、なんとも重く鈍いものだった。当然のごとく納得のいかない光岡進社長(現:会長)は幾度もやり直しの指示を出し、社員たちはその想いに応えようと朝も夜もなく躍起になった。当時の社員は口を揃えて言う。「あの頃は苦労の連続だったけど、絶対にオリジナルカー、ゼロワンを世に出そうと誰もが思っていた。まるで自動車産業創成期のような経験が出来た私たちは幸せなのかもしれません。」

そして掴んだ夢。
自動車メーカー
MITSUOKA誕生。

組立車ゼロワンは順調な売れ行きで程なく完売となった。しかし、量産車ゼロワンの型式認定の壁は予想以上に高く、開発は難航していた。結果的には会社経営に影響するほどの開発費を投じることとなり、社内でも再三このプロジェクトに対する審議が行われた。
平成6年1月20日、運輸省(現:国土交通省)に「自動車メーカー」を問うたあの日から約4年半の月日が流れ、ようやく型式認定を取得。それはまさに光岡進と社員の夢が結実した「自動車メーカー誕生」の瞬間でした。